斎藤 宇一郎(さいとう ういちろう、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 大正15年(1926年)5月10日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→革新倶楽部)、農業指導者。三男の憲三はTDKの創業者。
経歴
出羽国由利郡平沢町(現在の秋田県にかほ市)に斎藤茂介(茂助)の長男として生まれる。生家は旗本仁賀保氏の家老格の家柄であった。1890年(明治23年)、帝国大学農科大学を卒業し、一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1892年(明治25年)12月20日、予備役陸軍少尉に任ぜられ、翌年に後備役となった。日清戦争がおきると召集され、海城まで従軍し、中尉に昇進した。1896年(明治29年)より農商務省に勤務し、翌年に林務官となるが、1898年(明治31年)に依願免本官。1899年(明治32年)、父茂介の死で帰郷。翌年、平沢町農会長・平沢郵便局長に就任した。
帰郷後、農村改良に尽力し、乾田馬耕・自給肥料・暗渠排水などを導入することで、生産性を高めることに成功した。
1902年(明治35年)、陸軍大尉に昇進し、郵便局長を辞任。同年の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、8回連続当選を重ね、1924年まで在職した。その間、秋田県農会副会長、横荘鉄道株式会社社長などを歴任した。
議員引退後は平沢町長を務めた。
家族
- 母・トキオ(天保10年12月生山形生まれ)、佐藤宮太の長女
- 弟・運治郎(明治7年11月生)
- 弟・修吾(明治12年7月生)
栄典
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章
選挙結果
1902年(明治35年)8月10日の第7回総選挙で秋田県郡部区(定数6)から立候補して初当選を果たし、1920年(大正9年)5月10日の第14回総選挙まで連続8回当選した。
仁賀保勤労青少年ホーム展示室
宇一郎のゆかりの品などは、現在、にかほ市仁賀保勤労青少年ホームに展示されている。
脚注
参考文献
- 「齋藤宇一郞君」『新選代議士列伝』金港堂書籍、1902年12月6日、203頁。doi:10.11501/778148。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778148/122。
- 「齋藤宇一郞」『衆議院要覧下巻 大正十二年一月編』衆議院事務局、1923年1月、296頁。doi:10.11501/1682438。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1682438/152。
- 伊藤永之介「齋藤宇一郞」『秋田』小山書店〈新風土記叢書8〉、1944年11月15日、163-188頁。doi:10.11501/1229660。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1229660/89。
- 「齋藤宇一郞」『人事興信録』(4版)人事興信所、1915年1月。doi:10.11501/1703995。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995/848。
外部リンク
- 農聖 斎藤宇一郎資料館 - ウェイバックマシン(2014年2月21日アーカイブ分)




